raikou
クリスチャンの希望は、神の子イエスキリストが再びこの地に来て、一緒に過ごすことです。神と人が共に住む世界、神と共に心を合わせて、生きる世界です。これはヨハネの黙示録の次の聖句から伺えます。
ヨハネの黙示録21:3-4
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

大艱難の預言

ある人は言います。「再びイエスキリストが地上に来る前には大艱難が押し寄せる。それによって地上の人々は3分の2までが死ぬ。その預言はヨハネの黙示録に書いてある」と。

確かに預言は大小様々な形でなされ、聖書は成就しています。

20世紀には、6000万の人が命を失ったという第二次世界大戦をはじめ、戦争や虐殺によって、数多くの人々が犠牲になりました。今でも各地の紛争で多くの命が失われています。大艱難はすでに様々な場所で起こっています。

「いや、預言によればまだまだ多くの人が死ぬ」という人もいます。しかし神は多くの大切な命が失われることを望んではいません。

裁きを思い返される神

旧約聖書のヨナ書では、ヨナ預言者が、ニネベ(イラク)の町に悪魔崇拝がはびこり、人々が暴虐と殺人、神殿売春と淫行から離れない様子に対し、40日後にこの町は滅びる、と預言しました。しかしその後、人々はこの預言を真剣に受け止め、自分たちの悪い道を悔い改めたので、神はニネベの人の命を慈しみ、裁きを思い返しました。

神は裁きの警告をしたとしても、多くの人が死ぬことを望んではいません。裁きの前に、預言者を送り、預言者は人々が悔い改めて正しい道に戻るように諭します。警告を行っても悔い改めず、その地に悔い改めの望みが断たれた時、やむにやまれず裁かざるをえないのです。

裁きの警告をするのは、この世に対して希望を失わせ、悲観的にさせるためではなく、悔い改めて、悪魔に捕らわれている状態から出てこれるようにするためです。

預言を利用する悪魔

悪魔はこの裁きの預言を逆に利用して、人々を不安にさせ、希望を奪おうとします。

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預言にそっくりな事象、たとえばテロや災害などを人為的に引き起こし、裁きの預言通りに実行されているように思い込ませたり、預言ばかりを注視させて、いつ起こるのかと不安にさせます。あるいは預言をあてたという偽預言者を仕立て上げて、注目を集めさせます。

これらは悪魔が大事なことから注意をそむけるために「罠」として仕掛けていることがあるので、注意が必要です。大艱難がいつやって来るのか、預言通りになっているのかどうなのか、次にどんな裁きが起こるのか、人々がそのような考えに捕らわれるように、悪魔は仕向けています。

人々を不安にさせて、預言通りかどうかに注目させておくのは悪魔の狙いです。

そして、あたかも預言がなされたかのように、大艱難の救世主を登場させて、人々を惹きつけようとしています。ローマ法王が救世主であるかのように仕立て上げる動きには注意が必要です。彼は、イエスキリストは失敗した、と発言しています。イエスキリストを失敗者として、自分を高める指導者に、信頼をおくことはできません。

イエスキリストを迎えられなかった人々

2000年前、神の子イエスキリストが地上に来た時に、接した人々の心には、この上ない喜びが訪れました。盲人は見えるようになり、足なえは歩けるようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、多くの病人は癒されました。

罪によって苦しんでいる人は、悔い改めて罪がゆるされるようにして解放しました。悔い改めに導くためには、耳の痛い話もしなければなりません。しかし、多くの人は自分の罪を認めようとしませんでした。

本当に神の子であるならば証拠があるはずだ、証拠を見せろ、神の子ならばあの場所で生まれるはずだ、預言の通りではないではないか、と口々に言いました。

この人々は預言の通りかどうかに関心があって、イエスキリスト自身がなにをしようとしていたのか、その心には関心がなく、迎えることができなかったのです。

人々の心に姦淫、盗み、偽証、ねたみ、高慢、貪欲、悪意などがあり、悪魔につけこまれ、その行いから離れることをしませんでした。その罪が神の前であまりにも重く、本来それを指導するはずの指導者も、まるでそのことを理解していませんでした。

それでも人々を救うために、神の子であり、罪のないイエスキリスト自身が、罪人として、すべての人の代わりに十字架にかかったのです。

ヨハネによる福音書3:17
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

神は罪人のあふれる世を一斉に裁くことをしませんでした。何度警告しても悔い改めることのない人々をそれでも愛し、自分の愛する息子の命を与えてでも、人々を救おうとしたのです。

ヨハネによる福音書3:16
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

そして神の送ったイエスキリストを心に受け入れ、信じて行動を改める人は、救いを受けるようにしました。

再び来るイエスキリスト

現在地上では悪魔を崇拝する人々が経済を支配し、政治を支配し、教育を支配し、情報を支配し、世の中をおさめています。

クリスチャンには、預言の謎解きに没頭させ、「清貧」を美徳とし、ボランティア活動に没頭するようにさせています。

ボランティア活動では、悪魔におさめられている経済になんの影響力もありません。

この世をあきらめて悲観していたら神と心が合わなくなります。神はこの世をあきらめず、自分の息子を与えてでも救おうとしました。

イエスキリストが再び来るときには、罪を背負うために来るのではなく、この世を愛し、次のようにすることを約束しています。

ヨハネの黙示録21:5 「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」

どのようにしたら神と人が共に生きる世界を実現できるのか、神と共に心を合わせ、一緒にこの世を新しくつくり変えていく人を求めています。